通勤電車内で書くブログ

朝夕の通勤電車内の限られた時間内で書くブログです。

認識の共有は大事

仕事に限らず、人と何かをしたり、話をしたりする際に、きちんと認識を共有することが大事だと感じる。

 

人と話をすること一つをとっても、自分が言っていることが、自分が認識していることが、相手にも伝わっているかを気にしているし、自ずと気になる。

 

一番気をつけているのは、言葉の定義が自分と違っている時だ。同じ言葉(単語)を使っていても、相手と認識が全然違っていることがある。

 

仕事中に、外部の人と話をすることがあるが、外部の人が何気なく発した言葉(単語)が、たしかにその言葉自体はあるけど、この話の流れで、その言葉が出てくる余地はないよね、なんてことは往々にしてある。

 

そこで、自分の認識と相手の認識との間のズレを治すべく、擦り合わせていく。ただ中には、その擦り合わせの途中で「それを〇〇と言っとるんだろうが!」と、キレられたこともある。

(一応は、そうですかと返事しつつも、「あぁ、コイツの馬鹿さ加減が元凶なんだろうな。コイツのオツムで少々何をやっても、たぶん良いことにはならんだろうな。」と思いながら、その後、必要最小限の話で済ませて終わったはず。)

 

あと、道案内をする時にも注意を要する。自分が知っているところであれば尚更だ。職場に時折、人が間違ってやってくることがあるが、私は近所であれば、極力、言葉だけでなく、視覚にも訴える、つまりは、建物の外に出て、「この道をここまで行って…」みたいな感じで外の建物や信号等を指しながら説明したりしておる(ただ、全くの近所でない、どうしてここに来たんだ?という人には、目印となる建物等を伝えるなどにとどめている)。

 

同僚からは「そこまでしなくてええでしょ」という感じで見られているが、分かっているからこそ、そこにズレが生じやすく、落とし穴になると思っているので、私は曲げない。

 

実際、ちょっと前に、同僚が、間違ってやって来た人に言葉だけで案内をしたところ、しばらくしてから、「お前の言った通りに行ったら全然違うじゃねえか。お前の説明じゃわからん。」と、目的地について用事を済ませた後に、わざわざ文句を言いに来た奴がいた。

 

同僚は「なんで分からないんだ。そもそも自分が調べておけばいいものを…」などとブツブツ言っていたが、たしかにそうなんだけど、言っちゃ悪いが俺に言わせりゃ、相手を見て自分の説明が分かりそうかどうかも考慮せずに口先でペラペラ案内した時点で、こうなることは分かっただろう、と思って聞いていた。

 

そんなわけで、認識を共有することは大事なんだということで、駅に着いたので、今回はここまで。