通勤電車内で書くブログ

朝夕の通勤電車内の限られた時間内で書くブログです。

方向性と具体的な手段の選択について

GWに引っ越しを果たし、新生活が始まった。

 

慣れるのに少し時間を要する気がするが、ここを乗り切れば、きっと楽しく過ごせるようになる…だろう。

そう願っている…。

そうであって欲しい…。

そうなるのか…?

 

環境の変化に不安を感じている…?

以前はそんなことなんかなかったのに。

以前は環境の変化に喜びを感じていたのに、なんでだろう…?

 

たぶん、以前は環境の変化による、何かいいことがあるに違いないという、根拠なき希望があったからだと思う。

 

今は根拠のない希望を感じることがなくなったからだろう、以前のように単に環境が変化したことによる喜びはない。どちらかと言えば、環境に変化に対して適応するという現実的なことに目が向いていて、喜んでいる場合じゃないという気持ちが強いのだと思う。

 

根拠のないことよりも、現実的な対応を重視するのは悪いことではないと思うが、今の自分の心境が何か間違っているような気がしている…。

 

たぶんだが、どうありたいかという方向性に関しては根拠を求めてはならず、具体的にどういう対応をするかは根拠に拠らなければならない、これを一緒くたにしてしまっている状態に対して違和感があるのではないだろうか…。

 

「どうありたいか」という方向性に根拠を求めては、現状に基づいて方向性を決めてしまうことにつながりかねない。

そうなると自分の限界を決めてしまうことにつながり、オチが分かってんだからもういい、という、諦めに近い状態になってしまう気がする…。

 

反対に、実際に行動する際に何の根拠もない、ということは、何の準備もないということに等しく、準備のなしに上手くいくということはそうそうないし、上手くいったとしても、根拠がない以上は再現性に乏しく、偶然の域を脱していない(準備なくともできるくらいのことは、大したことじゃない、とも言える)。

 

どうありたい、どうしたいと思うのは自由でいい。ただ、こうありたい、ああしたいと思って策を練って実行する際には、具体的な根拠とそれに基づいた行動を。

 

方向性の決定と具体的な手段の選択における思考を混ぜたらダメなんだろうね。

 

混ぜるなキケン!というヤツかな。

 

訳の分からんことを書いたし、明日、もう1日出勤だし、もう寝よう。