通勤電車内で書くブログ

朝夕の通勤電車内の限られた時間内で書くブログです。

亡くなった人を想う

今日、ちょっとした記事を見ました。実はまだ全部読んでいないので、本来なら、全部読んでから書くべきかとも思ったのですが、通勤電車内のしか文章を書かないという都合上、途中までを読んだところで、そこまでで思いついたことを書いてみたいと思います。

 

「遺体ホテル」への反対運動 経営者が語った〝至極まっとうな反論〟 死体を歓迎しない「究極の自己否定」(withnews) - Yahoo!ニュース

 

(本当に冒頭くらいを上っ面しか読んでないのがバレるけど)人が死んだ時、その死体は突如として忌み嫌われる扱いをされる。

 

生きている間はその人を尊重するというか、大事にしていると言うか、うまく言えないけど、その人を自分と同じく人間であるという認識を持って接しているのに、死んだと判定されてからは、不吉だとか縁起が悪いだとか、そんな扱いをされるようになる。

 

人が亡くなったことを不幸という言い方をするけど、その言い方一つにしても、なんとなくだが、亡くなった人の死体を、ひいては、その人の存在自体を不幸と言っているようにも感じられる、かもしれない。

 

たぶん、身内や友人関係等でそういう扱いをする人は、あんまり多くはいないと思う(いないとは決して言わない。案外、自分が思っているよりかは多いかも。)

 

だが、身内でも友人でも恩人でもない、全く知らない人だと、あからさまに態度が変わり、忌み嫌われる。

そこから、火葬場の新築や葬儀場の建設工事への反対運動につながっていく。火葬場や葬儀場は必要だと分かっているけど他所でやってね、となる。

 

こんな話でよかったっけ?

 

死は万人に共通してやってくるもので、決して特別なものでもなんでもないのに、なんでそんな扱いになるのか。

(とはいえ、仮に自分のうちの隣に火葬場なり葬儀場が出来るとなったら、たぶん抵抗するとは思う。)

 

死別という永遠の別れの悲しみが強烈すぎて、二度と(一度たりとも)経験したくないこと、避けたいことだという思いだったんじゃないかと思う。

それが転じたのか、新たないわくが出来たなのか、そんなことは知る由もないが、いつの間にか、死別を避けたい、というが、死んだ人を避けたいに転じていったのかな、などと思っている。

 

亡くなった人か…。一応だが、今のところ、自分と接してくれた人で先に亡くなった人は、訃報を聞いた人であれば、たぶん全員覚えている。年数を重ねれば、覚えきれなくなるかもしれないが…。

 

大なり小なりにショックを受け、あの人に何もしてあげれんかったな…と悔やむこともあった。自問自答して、生きている限りにおいて、そいつのことを覚えておくことしか俺には出来んとの思いに至って、少し安定した。

 

(なお、祖母が亡くなった時、葬儀に来てくれた住職が偶然だが同じような説法?をしてくれた。「人は二度死ぬ。一度目は、実際にその人が死んだ時。二度目は、その人のことを覚えている人がこの世から消えた時」だそうな。)

 

中途半端に目にした記事をきっかけに書いたら、最後は訳がわからんようになった。収拾がつかないので、強制終了。タイトルも、うまくつけれなかった。

 

今回はここまで。