指導者か、支配者か?
家の近くの1級河川の河川敷にランニングコースがあり、そこを中心としてランニングをよくやるのですが、そのランニングコースのそばに軟式野球場や、ソフトボール場があり、休日は特に人で賑わっています(コロナ禍にあっても、そんなに変わらなかった場所かもしれません)。
そこの野球場は主に大人がプレーしている姿が多くみられ、ソフトボール場では、大学生あたりの年代の子と思しき連中がたまにプレーをしているのを見ますが、基本的には小学生くらいの子供がたくさん集まって練習なり、試合なりをしています。
小学生がソフトボールをやっているそばを走り抜ける時、10回に1度くらいの割合で、指導者であろう大人が、子供に向けて大きな声で何か言っている場面に遭遇します。聞く気もないけど、声が大きいから聞こえてくるんだけど、その内容が耳を疑うことが多い。
過去に出くわしたものとして、こんなのがあった。
「お前はその位置におってええんか?そこに居てええんかと聞きょんじゃ?どうなんじゃ?」
ポジショニングについて、怒鳴りながら子供に問うている。
…
……
………
「自分のおる位置くらいよう考えぇ!!」
ええっ!? 答えを全く示さずにキレてるだけなん?
答えを教えていたら、言われたプレーしかしなくなる、考えなくなるっていう話は聞くけどさ、逆に何の基準も方向性も示してやらんと、このままだったら、その子にとっての答えは「お前(指導者)の期限を損なわないためのプレーを忖度する」ということになって、しかもそのために、選手はものすごく委縮することになるけど、それこそホンマに「それでええんか?」と。
考えられる選択肢、選択する基準、方向性を示しておく、これは別にやっておいてもいいはずだ。その考えられる選択肢の中でどのプレーを選択するか、ここはその選手の判断に任せる、考えさせるべきポイントじゃないんか?(あらかじめ示された選択肢以外のプレーを選手が選択することもあろう。その是非は、それこそ、子どもに確認したうえで判断すればいい。)
それをせずしてキレられても、子どもにしてみれば、「何がアカンのか分からんけどキレられてる」程度の訳の分からん怒号くらいにしか思えず、ただただ委縮するだけやと思うで。
いまだに指導者と称する奴らって、いちいち怒鳴るけど、技術的なことを教えるのに、わざわざ怒鳴る必要はないだろ(声が届かないってことで、大声を出すまでは分かるけど)。
必要もない罵詈雑言も混ぜて、何でもかんでも怒鳴り散らす指導者って、いまだにたくさん見かけるなぁ…。それが子どもが上達するために寄与するかどうかって、考えたこともないんじゃなかろうか…。あまりにもバカすぎる。
怒鳴るとすれば、やるべきことをやらなかったとき、出来るのにやらない、怠ったというとき、やってはならないとあらかじめ伝えておいたのにやったとき(特に安全にかかわること)といった具合に、極めて限定的でないといけないんじゃなかろうか…。
子どもを伸ばしてやるのが指導者、子どもを縮こまらせるのは支配者。大人は子どもにとっての指導者であっても、顔色を窺わせて委縮させるような支配者であってはならぬ、そう思うんです。
河川敷を走っている際に時々出くわす場面についての思いを少し書くことが出来ました。明日も河川敷を走る予定だけど、子どもたちが元気にのびのびと、自分が上達しているって感じながらプレーしてくれているといいなぁ…。